COLOR'S

小説

いと心深うあをみたるやうにて

翔太と私はほぼ同時に玄関を出る。
「行ってらっしゃい」の声に振り向きもせずに、「行ってきます」だけボソッと言って、翔太はマンションのロビーを出た。
さて、私も駅へ向かわなくちゃ。
駅までは徒歩で7分、大股で歩く。
満員電車で30分揺られ、10分歩いて会社に到着した。
 
 
会社では派遣社員として、もう5年働いている。
派遣社員の契約は長くても3年が勤められる期間だ。しかし、派遣法の改正で3年経って別の部署に移動すれば、その会社に勤め続けられるシステムに変わった。
今の部署は、私を入れて7人しかいない小さな部署で、穏やかな人ばかりだ。
そんなわけで居心地も良いこの会社にい続けている。
 
 
頼まれごとの資料を作成しながら客先から電話を取り応対する日々。
忙しいけれど私はこの仕事が結構気に入っている。
何より暇な時間がないのがいい。
前の会社では半日以上仕事がないことがしょっちゅうあった。繁忙期と閑散期が激しいのだ。
私はそういうのは苦手。
忙しくしている方が、性に合っていると思う。
1日中パソコンの画面に向かい合っているのも最初の1週間で目が慣れた。
 
「高野さん、これ、3時までにできる?」
山下課長から声がかかった。課長クラスの人は他の派遣先を見る限りにおいて、人格者が多い。
苦労しているからなのか、派遣社員の指導を任されているからなのか。
山下課長も御多分に洩れず、仕事はできるし普段は温和。でも部下には厳しい一面もきちんと持っている。上に行く人はこう出なきゃいけないんだろうな。
そんなことを思いながら山下課長からの仕事をする算段をつけ始める。
「はい、2時にはできると思います」
資料を受け取って早速取り掛かる。
メールで新たな緊急の仕事が入らない限り、予定通り仕上がるはずだ。
 
夕方、夏の終わりの大きな濃いオレンジ色の夕焼けを見ながら、駅へ向かって歩く。
満員電車の中でギュウギュウに押されながら、今日の夕飯の材料を思い浮かべた。
今日の献立はなんだったかな。
食材は、日曜日にまとめて1週間分書いだしておくのが真希のやり方だ。
翔太が小さい頃からの習慣で、1週間分の献立をあらかじめ立ててしまうのだ。
1週間分の献立と使う食材を書いたメモを冷蔵庫に貼り付けておき、済んだものから傍線を引いて消していく。
こうすれば毎日献立に悩まなくて済むので時間短縮にもなるし、食材を余らせてしまうこともない。
 
次の駅で少し人がまとまって降りる。車内が空いて力の入っていたからだがホッとするのもつかの間、同じくらいの人数がまたドッと乗り込んでくる。
やっと自分が降りる駅に着いた。
ホームの人の波に混ざりながら、エスカレーターを上って改札を出る。
 
帰り道は少しのんびり歩く。
真希は朝晩の通勤で歩くとき、イヤホンで音楽を聴いている。
指輪やネックレス、首から下げるタイプのエプロンやスカーフも、つけると違和感があるのであまり好まない。
本当はイヤホンを耳につけ続けるのにも抵抗があったけれど、そのうち慣れてしまった。
朝はやる気を起こすためにノリのいいJポップをかけるけれど、帰りは少し自分を癒したくてボサノヴァのギター曲を聴くことにしている。
軽いタッチのギターの音色のボサノヴァは、心まで軽くしてくれるのだ。
 
 
手を洗って上着を脱いだら、シャツの袖をまくりながら冷蔵庫のメモを確認し、調理を始める。
一度座ってしまうと2度と立ち上がれないので、帰ったら休憩せずにすぐに取り掛かるのだ。
「お母さん、今日のご飯、なあに?」
翔太が早速横にひっついてくる。
図体は大きいけれど、まだまだ中身は子どもだ。
疲れているので無言で調理したいが、ここはぐっと我慢してにこやかに「麻婆丼と卵スープよ」と答える。
青梗菜を軽く洗い、縦半分に切って油を落としたお湯で軽く湯がき、水分を絞っておく。
彩りと、少しでも野菜を摂りたいから。
湯気の上がっている青梗菜をざるに移すのを目で確認すると、翔太はリビングのソファに戻っていった。
「ああもう、見てるなら箸やスプーンを出すなりテーブルを拭くなりしてくれればいいのに!」
翔太が手伝ってくれないことに少し苛立ちながら、でも声には出さずに夕飯を作り続けた。